福岡の茶道にはどのようなものがあり、どのような歴史があるでしょうか

茶道の流派というと、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が有名ですが、福岡の茶道には南方流というものがあります。三千家を含めた茶道の歴史的な説明をした上で、福岡における茶道具の買い取りの可能性について歴史的背景から説明をします。

福岡の南方流なんぽうりゅう

茶道具 福岡,買取

茶の湯の歴史と言うと千利休せんのりきゅうが思い浮かびますが、千利休は茶の湯の大成者ではありますが、創始者というわけではありません。千利休よりも前から茶人がいて、千利休の侘び茶以前からの流派があります。例えば具体的には、千利休は武野紹鴎の弟子となります。

表千家と裏千家が主流になったのは、明治以降に家元制度を作り、女性の花嫁修行として茶の湯を取り入れたからです。それ以前の江戸時代では、それぞれの藩に茶頭がいて、それぞれの流派がありました。

江戸時代に福岡にあったのは黒田藩です。黒田藩の茶道は南方流になります。南方流の祖は立花実山で、福岡藩の家老であり、3代藩主黒田光之に45年間つとめました。
立花実山は、織部流を基本として道庵流と遠州流を加え、南坊流(立花流)を開き、茶書「南方録」の著者でもあります。千利休が亡くなってから100年が経過しており、改めて利休の教えに回帰しようとして、書物や伝聞として残された茶の精神を理論的に著述したものになります。立花実山の自筆本は博多円覚寺に伝えられています。
江戸時代から全国に広がったのは南流の名前ですが、博多円覚寺では南流の名前で茶道の指導を行っています。

茶道の歴史

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茶道の歴史はとても古く、その起源は鎌倉時代まで遡ります。
もっとも、お茶を飲む習慣そのものは、平安時代に空海と最澄が中国から持ち帰りました。しかしあまり広まる事はありませんでした。その頃のお茶は医薬品として扱われ漢方薬の一種のような存在でした。
お茶を飲む習慣が普及したのは、日本に禅を伝えた栄西が、中国からお茶を持ち帰り、九州に植えたのが始まりとされています。栄西は長崎県平戸に日本最初の茶園を開き、福岡県と佐賀県の境にある脊振山せふりさんにも茶園を開いたと言われています。

室町時代に入るとお茶の銘柄を当てる闘茶という博打が流行し、また中国の茶器である唐物が大金で流通しました。そして大名の間で唐物数奇という盛大な茶会を開くことが流行しました。中国の美術工芸品を飾り立てた座敷でお茶を中心とした宴会をするというものになり、お茶は娯楽性の強いものとなりました。

しかしこのような華やかな茶会を否定する流れもでてきました。足利義政の茶の師匠の村田珠光が、茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視するあり方を説きました。こうしてこの時代より侘び茶の原点が出来上がっていきます。そして安土桃山時代に、堺の豪商である武野紹鴎とその弟子の千利休が、現在知られる形の茶道を完成させました。
元々商人階級であった千利休の作った茶道は、武士階級にも広がり、古田織部や高山右近など利休七哲と呼ばれる高名な弟子たちを生んでいきます。
江戸時代初期では、茶の湯はまだ大名や豪商などの一部の人たちにしか普及していませんでした。福岡藩で南方流が始まったのもこのころの時代になります。
江戸時代中期に入り、茶の湯の文化が広がり、徐々に茶道人口が増えていきました。その新規参入者を迎え入れるためにできたのが、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家となります。 江戸時代中期に茶の湯が各地の商人富裕層に普及した時に、新たな稽古の方法として、七事式を制定するなど千家の茶道を広めました。

茶道の近代史

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現在では裏千家が最も門下生の多い流派といわれています。これは11代玄々斎のころから、1872年の博覧会に合わせ、外国人のために正座ではなく椅子に座って行う茶道を考案するなど、積極的な拡大を行いました。または女学校の教育に茶道を取り入れてもらったり、教授方針を教えるための講習会を開くなど普及に務めました。
具体的には、

  • 明治五年(1872)に設立された京都の新英学校・女紅場(現:京都府立鴨沂高校)
  • 明治八年(1875)に設立された東京の跡見学校(現:跡見学園)
  • 明治十八年(1885)設立の華族女学校(現:学習院女子大学)
  • 明治十九年(1886)共立女子職業学校(現:共立女子大学)

などで茶道が取り入れられました。
戦後になって十四代淡々斎が茶道の学校教育への導入を働きかけ、学校のクラブなどで採用される流派の大半は裏千家となりました。また各地の神社や寺院で献茶や供茶を行ったり、海外への普及に取り組むなど、茶道振興に努めました。また社団法人茶道裏千家淡交会を結成し、家元を財団法人化するなど、裏千家の組織化も行われました。このようなことから現在では茶道人口としては裏千家が最大規模を誇るようになりました。

茶道具の歴史

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茶道具の歴史に注目してみると、室町時代の華やかな遊びの茶の時代に、唐物などの道具を尊ぶ風潮がありました。千利休の活躍した天正年間には道具の価値観が大きく変化し茶壺や茶入などが尊重されるようになりました。大名物と呼ばれる、室町時代に足利将軍家が所有していた東山御物と利休時代に高く評価された茶入など、名物や中興名物といったものもあります。これらは有名なものですが、実際に茶の湯に使うものというよりも、現在では既に美術館に所蔵されるようなものとなっています。
江戸時代中期に三千家の家元制度が確立したことにより茶道が庶民にも広がったのですが、それと同時に骨董品を集めるという趣味も広がりました。その頃の骨董品というのはまさに茶道具のことでした。
明治になると、文明開化の当初は、このような日本の古美術は価値がないものとみなされ、二束三文で処分されました。それを外国人が東洋美術として買い漁り、今でもボストン美術館などに多くの日本美術コレクションがあります。その後、茶道具は三井財閥などその時代の豪商が収集するというものになりました。明治末期には材発が庭園などで行うお茶会という形式が上流階級の社交として盛んに行われるようになります。大正時代に入り、第一次世界大戦が始まると、日本では戦争景気から成金と呼ばれる人たちが登場し、茶道具を含めた古美術品の取引が活発になりました。太平洋戦争のころには古美術品の取引も下火になりますが、高度成長を迎え、再び古美術品にスポットが当たるようになりました。これまでは国宝級の作品や高価な作品が古美術品の主流でしたが、高度成長期以降は伊万里焼や民芸品なども古美術品として扱われるようになり、茶道具も、名物だけではなく、様々なものが骨董品として買い取られるようになりました。

福岡における茶道具買取

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以上のように、茶道具は室町時代からの歴史があり、どの時代にも高価なものがありました。その多くは唐物として中国から入って来たり、また九州で生産されたものも多くありました。豊かな町人文化が背景にあり、博多はまさにそれを体現したような街でした。美術館に入っているような「名物」は、まだどこかに埋もれているかもしれませんが、これから掘り出し物として出てくることはあまり期待できないかもしれません。しかし江戸時代や明治時代に使われていたものが、今の価値で見た時に価値のある品だとみなされて高額で買取されることは十分にあります。そのような宝物が眠っている可能性の高い土地が福岡であると言えるでしょう。